Facebookで赤裸々に告白した、後藤の挫折と成功の
紆余曲折を14話抜粋してメールでお伝えします。
妻、裕美と初めて出会ったのは、横浜市鶴見区のセミナー会場。元気に、飛び回る彼女と、「生意気」な発言に、何だ、あの生意気な女は・・・ と思ったのが、妻と私の最初の出会いでした。しかし、ご縁があって結婚! その後しばらくして私が起業、「塩にぎり物語」がスタートしたのです。
平成10年1月、横浜桜木町に、自然素材のショールームを兼ねた事務所をオープンしました。私と裕美のたった2人にとっては、15坪の事務所は、とても広く感じるものでした。しかし、オープン直後「事務所閉鎖しようか~」、私は、そんな弱気な発言をしたのです。
30年来通っている床屋さんから、「あの当時は円形脱毛症になっていましたよ」と言われたのは、塩にぎりを脱して、しばらくたった頃でした。当時は、自分がストレスを感じているとさえ思っていなかったのです。
21才で最初の起業、33才で2度目の起業。したくてした起業だった筈なのに、一度だけ本気で後悔したことがありました。上手く行かなかった時は、それほど弱気になったのです。しかし、今更、サラリーマンには戻れない、妻に励まされながら、意地と根性で頑張ったのです。
「幸せにする」「土方をしても、食べさせる」。自信家だった私は、妻とそんな約束をして、新婚早々に脱サラして、起業しました。妻にとっては不安だったと思いますが、私が弱音を吐いた時、妻が鬼嫁の本領を発揮しました。実は、妻の方が強かったのです。
妻との交際時代、「アトピーがぐんぐん良くなる」という怪しげなタイトルの本を見つけてきて、妻を、無理やり、新横浜の診療所に連れて行ったのは、私でした。重症のアトピー患者であった妻にとっては、また新手のアトピー商法かぁ・・・ と、半ば、疑い半分で、私に付き合ってくれたのです。それがライフワークと出会うキッカケでした。
私が、まだ「白馬に乗った王子様」だった頃の話です。正直で、思ったことを直ぐ口にする。損とか得よりも、どちらが正しいと思うという自分の考えを主張する。正直で、傷つき易いそんな彼女を「守ってあげたい」と思ったのです。
シックハウス問題を研究したことで、マスコミに取り上げられ、㈱大京の顧問にもなれた私にとって、シックハウス対策の専門家という肩書を脱皮することは相当の勇気が必要だったのです。しかし、そこを超えたことで、パラダイムシフトが起こったのです。
シックハウス対策リフォームを事業化し、それがNHKの「おはよう日本」に取り上げられた直後、ライオンズマンションの㈱大京のお偉いさんから電話が入りました。「マンション販売の差別化として、業務提携してほしい」「技術顧問になってほしい」こんな夢のような提案を頂いたのです。
「コンサルの先生に相談してみない?」妻から提案がありました。客無し、人脈無し、金無しで始めた会社です。そのうちボチボチ稼げるようになればいいという程度で、シックハウス対策を事業にしようと突っ走っていましたから、私の頭の中には、明確なビションも、具体的な計画もなかったのです。
その頃の私は、マーケティングの勉強も、広告の勉強もしたことが無かったので、「情報販売」と言われても、全くピンと来ませんでした。永田さんがキッカケとなり、マーケティングやコピーライティングを学び、「理想のお客さん」に、「適切なメッセージ」を発信できるようになって、会社が安定したのです。
創業の地は、横浜鴨居の自宅でした。その後、ランドマークがある桜木町に最初の事務所を構えました。売上げが安定するようになり、横浜元町か、鎌倉の古民家に移転することが永年の夢となっていました。そして、ついに、念願の鎌倉移転を果たしたのです。
鎌倉に移転し、人を堂々と呼べるようになりました。会社は、自宅から徒歩20分の距離なので、毎日、トイプードルの華子と、くるみ、妻と、私の4人で、お散歩がてらの出勤です。この地で、塩にぎり物語のステージ2は、始まりました。
理想の顧客に、適切なメッセージを伝えるというマーケティングの知識を見につけたことで、アトピッコハウスは、売上げが安定しました。そして、私の知識とノウハウを工務店に提供するようになりました。次は、工務店社長をヒーローにしてあげたいと思ったのです。